薬剤師の歴史

 平成25年度、日本薬剤師会の調査によれば、医薬分業率は、67.0%、保険薬局が受け付けた院外処方箋枚数は、7億6303万枚に達しています。厚生労働省の調査でも、医薬分業率は平成25年6月審査分で病院74.1%、診療所68.9%、全体では70.2%となっています。

 

 今では、医療機関が院外処方箋を発行することは当たり前となりつつありますが、医薬分業制度が日本の医療に導入されたのは、140年近く前の1874年(明治7年)です。それにもかかわらず、今から40年前までは、医療機関の院外処方箋の発行はゼロに等しかったのです。

 

 第二次世界大戦後の薬剤師の歴史は、今日の“医薬分業時代”を実現させるため、大変な時代がありました。

昭和24年~昭和31年

1.医薬分業法制定

 

▶強制医薬分業法(医師法、歯科医師法及び薬事法の一部改正法)の制定を求めて

 

 太平洋戦争が終わり、日本は、戦勝国アメリカ、イギリス等の連合軍に占領され、連合軍総司令部(General Head Quarter,GHQ)の支配の下におかれました。GHQは、帝国憲法の廃止、新憲法の制定をはじめとして、日本の法令、行政、社会制度等の近代化を日本政府に求めました。

 

■昭和24年
 GHQの招きで、米国から「社会保障制度調査団」が来日。同調査団の勧告は、後の「国民皆保険体制」導入の礎となる。
 これをみた日本薬剤師協会(当時)は、GHQに対し、医療制度の近代化の一環として、「医薬分業」の実施を要請。

 

■昭和24年6月
 日本薬剤師協会は、その実現を目指して、政治団体「日本薬政会」を立ち上げ、政治運動を開始する。

 

 当時、日本の保健、医療政策を担当していたGHQの公衆衛生福祉部長クロフォード・F・サムス准将は、総司令官ダクラス・マッカーサーの承認を得て、米国薬剤師協会に調査団の派遣を要請しました。

 

■昭和24年7月
 米国薬剤師協会使節団が来日。
 使節団は、東京をはじめ、関西、九州にまで足を伸ばし、精力的な調査を行う。

 

■昭和24年7月末
 使節団はGHQに勧告書を提出。

 

■昭和24年9月13日
 サムス准将は、日本医師会、日本歯科医師会、日本薬剤師協会の同席のもと、45項目に及ぶ「勧告書」を厚生省に手交し、法に基づく強制分業の実施を勧告。

 

米国薬剤師協会使節団の勧告書(抜粋)
(日本薬剤師会百年史より)
・法律上、教育上及びその他の手段により、医薬分業の早期実現のために、可能なるあらゆる努力がなされるべきであること
・日本における薬局が、他の適当な施設、機関とともに、厚生省により公衆衛生知識の普及活動のために利用されるべきこと
・医師法第22条の規定を、医師は患者からの求めに応じて、薬でなく処方箋を特別料金を要求することなく、かくして人々に調剤者の自由選択を保証するよう修正すべきこと

 

▶臨時医薬制度調査会、強制分業の是非を審議

 

 しかし、GHQの強制医薬分業実施の勧告に、日本医師会等は強く反発したのです。

 

■昭和25年7月
 サムス准将の指示により、厚生省は、臨時診療報酬調査会を設置して「物と技術を分離した診療報酬の創設の可否」について諮問し、一方、臨時医薬制度調査会を設置して「強制医薬分業の是非」について諮問する。
 臨時診療報酬調査会は、全会一致で物と技術の分離を「可」とし、また、臨時医薬制度調査会は、19:11の賛成多数で、強制分業の実施を答申した。

 

■昭和26年3月
 厚生省は、強制分業法案(医薬法、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律案)を国会に提出。国会は審議を開始したが、国会は、賛成派、反対派が激しく対立する。

 

■昭和26年3月25日
 日本薬剤師協会は、共立講堂で全国薬剤師大会を開催、強制医薬分業法の早期成立を訴えた。

 

▶8000人の薬剤師がデモ行進敢行

 

■昭和26年5月21日
 日本薬剤師会は、「医薬分業達成国民大会」を開催し、大会後、都心部をデモ行進する。

 

■昭和26年6月
 国会は激しい議論の後、強制医薬分業法は、26年9月公布、30年1月1日より施行と決まる。

 

■昭和29年4月
 強制医薬分業の実施をあくまで阻止しようとする医師会等の動きは激しく、医薬分業法施行を先延ばしする医薬分業法実施延期法案(医師会、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律の一部を改正する法律案)が国会に提出される。

 

■昭和29年11月
 日本医師会は全国医師大会を開催。強制医薬分業反対を決議し、世論も医薬分業の是非を巡って割れた。
 この動きに対し、日本医薬分業実施期成同盟が結成し、全国薬剤師総決起大会を開催。再び、都内の大デモ行進を敢行した。

 

▶延期反対で、デモ行進

 

■昭和29年12月
 医薬分業法は修正され、昭和31年4月施行に延期された。当初の予定よりさらに延期。

 

■昭和30年7月
 強制医薬分業法の骨抜きのための同法一部修正案が国会に提出。
 これに対し、日本薬剤師協会と日本薬政会は、同月、「分業貫徹全国薬剤師総決起大会」を開催。大会には全国から薬剤師、薬科大学学生ら5000人が集結。大会では、「国際連合保健機構及び国際薬剤師連盟に分業促進を訴願する件」が提案され、満場一致で採択された。大会後、参加者全員がバス40台を連ねて国会へ向かった。

 

▶デモ隊、国会へ!!

 

 国会議事堂前に集結したデモ隊は、衆参議員20数人を呼び出し、陳情をおこなった。また、デモ隊の一部は、国会議事堂フェンスを乗り越え、国会構内の広場で座り込みを行いました。

 

▶医薬分業法一部修正案成立

 

■昭和30年7月
 強制医薬分業法一部修正案は可決成立。修正により、医師の処方箋交付義務は大幅に緩和され、事実上の任意医薬分業法となった。

 

■昭和30年8月
 修正医薬分業法は公布され、昭和31年4月1日実施とされた。

 

■昭和35年
 薬事法が改正され、薬剤師の身分法である薬剤師法が制定され、分業に関する規定も引き継がれた。
 医薬分業法は、“骨抜き法”との批判の声もあった。しかし、その後の医薬分業運動の法的根拠となっていくのです。

 

修正された医師法の第22条
第22条
 医師は、患者に対し治療上薬剤を調剤して投与する必要があると認めた場合には、患者又は現にその看護の当つている者が処方せんを交付しなければならない。ただし、患者又は現にその看護に当つている者が処方せんの交付を必要としない旨を申し出た場合及び各号の一に該当する場合においては、この限りでない。
1.暗示的効果を期待する場合において、処方せんを交付することがその目的の達成を妨げるおそれがある場合
2.処方せんを交付することが診療又は疾病の予後について患者に不安を与え、その疾病の治療を困難にするおそれがある場合
3.病状の短時間ごとの変化に即応して薬剤を投与する場合
4.診断又は治療方法の決定していない場合
5.治療上必要な応急の措置として薬剤を投与する場合
6.安静を要する患者以外に薬剤の交付を受けることができる者がいない場合
7.覚せい剤を投与する場合
8.薬剤師が乗り組んでいない船舶内において薬剤を投与する場合

 

薬剤師法
(調剤)
第19条
 薬剤師でない者は、販売又は授与の目的で調剤してはならない。ただし、医師若しくは歯科医師が次に掲げる場合において自己の処方せんにより自ら調剤するとき、又は獣医師が自己の処方せんにより自ら調剤するときは、この限りでない。
1.患者又は現にその看護に当つている者が特にその医師又は歯科医師から薬剤の交付を受けることを希望する旨を申し出た場合
2.医師法(昭和23年法律第201号)第22条号の場合又は歯科医師法(昭和23年法律第202号)第21条各号の場合

 

 

続いて、薬剤師の歴史(昭和31年~平成25年)

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